よみもの・連載

駆け込み寺の女たち

第一話 妻の鏡 前編

遠藤彩見Saemi Endo

 辿ってきた板塀がふつりと途切れた。なつが左を向くと、塀と塀の間の奥まったところに扉を開け放した門が見えた。
 その脇には欅(けやき)の木がそびえ立ち、箒のように茂った青葉が昼下がりの陽射しに照り輝いている。ここだ、間違いない。
 胸の鼓動が一気に速まる。江戸を発ってから二日、ついに目指す尼寺にたどり着いたのだ。上州満徳寺(まんとくじ)──縁切寺に。
 縁切寺は、江戸のこの世で唯一、妻から夫に離縁の申し立てができる場所だ。夫の浮気、暴力、身勝手──様々な事情で離縁を望み、駆け込んだ女を護り、離縁を叶えるための強い味方になってくれるという。
 門の敷居が横一文字の黒い線を引いている。それを踏み越えたら、もう後戻りはできない。
 その先には何が待っているのだろう。
 なつが恐る恐る門に歩み寄り、敷居の前に立ったとき、ちょうど中から野良着姿の男が現れた。
 数えで十九のなつと同じ年頃か。小柄だが、体つきは引き締まった鋼のようだ。どうやら寺男らしく、敷居の向こうから鋭い眼差しを旅姿の小娘に向ける。
「駆け込みか」
「あ……」
 菅笠で隠れたなつの顔を、寺男が身を屈めて覗き込み「駆け込みか」と繰り返す。
 なつはとっさに後ずさりし、門から離れた。
 板塀で身を隠し、背を預けて息を整える。満徳寺の目印である欅──縁切り欅というらしい──を見上げていると、友だちに言われたことが頭に浮かんだ。
 ──とっても、とっても厳しい尼寺なんだそうよ。
   不調法でもしようものなら、酷いお仕置きが待っているって。
 さっきまで袷(あわせ)の着物の下で汗ばんでいた体が震えている。なつは泣きたいような気持ちで天を仰いだ。
 来た道を振り返ると、まるで自分が大きな川の真ん中に放り出されたようだ。見渡す限りの畑は水面で、木塀で囲まれた満徳寺はぽつりと浮かぶ木箱。あちらこちらで小さく跳ねる魚は、畑仕事をしている百姓だ。初めて見る景色なのに、なぜか見覚えがある。
 苦い笑いが込み上げた。見覚えがあるのは景色ではない。景色をふんわりと包む春霞だ。目の前が涙で霞んだときとよく似ている。涙の霞の向こうには、いつも夫の顔がある。
 ──やい、おなつ、泣くなよ。江戸一の美人が台無しじゃねえか。
 夫の倉五郎(くらごろう)がなつに笑いかける。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『みんなで一人旅』『二人がいた食卓』などがある。

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