よみもの・連載

駆け込み寺の女たち

第二話 小姑の根っこ 前編

遠藤彩見Saemi Endo

 真夏の太陽に背を焼かれているのに、胸乳(むなぢ)の間を冷や汗が流れる。しのは道の上で立ちすくんだまま、風呂敷包みを抱えた腕に力を込めた。
 今すぐ逃げなくては。だけど満徳寺(まんとくじ)の駆込門はもう、すぐ目の前だ。駆け込みさえすれば、さんざん苦しめられた日々がようやく終わる。
 それなのに、駆込門の前には夫の岩吉(いわきち)が立ちはだかっている。
 木陰に立っているせいで、陰になった岩吉のごつい顔が余計に恐ろしく見える。胸の鼓動が激しくなり、しのの体を震わせる。
 なぜ、岩吉がここにいるのか。婚家からここまでは歩いて一刻半(約三時間)は掛かるというのに。
 しのは額から流れる汗を払い、恐る恐る前に踏み出した。いつでも逃げられるようにへっぴり腰で岩吉に呼びかける。
「あんた、どうしてここに……?」
 岩吉は返事をせず、じろりとしのを睨む。昨夜言い争ったときと同じだ。しのが泣きながら宣言したときと。
 ――あたしは離縁してこの家を出ます!
 満徳寺は縁切寺。江戸のこの時代、女から離縁を切り出すなら、縁切寺に駆け込むしかない。しのの行き先を岩吉が察したのも分かる。
 しのは改めて岩吉の顔を見た。
 この暑い中、岩吉は一刻半も歩いてしのを追ってきたのだ。もしかしたら、岩吉は心を変えたのかもしれない。しのがこれまで泣いて訴えてきたことが、岩吉の心にようやく届いたのかもしれない。
「あんた、もしかしてあたしを迎えに――」
 しのがまた一歩踏み出したとき、門の脇に生えた欅(けやき)の木陰から、するりと女が現れた。
 くるぶしが隠れる長い着物を痩せた体にまとい、派手な花模様をちりばめた抱え帯――帯の下に巻く腰帯――でたくし上げているのは、義姉(あね)のひさだ。岩吉に歩み寄ると背を叩き、伸び上がって叱りつける。
「何やってんの。おしのに早く謝って」
「お義姉(ねえ)さん」
 目を見張るしのに、ひさが油のようにねっとりとした視線を向ける。ほんのり紅を引いた薄い唇が得意げにまくし立てる。
「あたし見ちゃったのよ、今朝、あんたが家を出ていくのを」
 ひさは二年前に夫に先立たれ、息子二人と一緒に実家――しのの婚家に転がり込んだ。そして今も一緒に暮らしている。

プロフィール

遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『みんなで一人旅』『二人がいた食卓』などがある。

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