第三話 箱入り娘の呪い 前編
遠藤彩見Saemi Endo
井戸からつるべを引き上げて井桁に載せようとした手が滑った。履いている足袋に井戸水が降りかかり、うたは思わず声を上げた。
季節は秋、濡れた足袋に包まれたつま先が冷たい。無様な自分の不器用さが全く嫌になる。いつもこうだ。手を洗うこと一つ、すんなりできない。
おまけに太り肉(じし)の不器量な女で、取り柄といえば齢十七の若さだけ。乾いた空気に湿っぽいため息を長々と吐き出したとき、うたは斜め横から自分に向けられた視線を感じた。
満徳寺(まんとくじ)の敷地をぐるりと囲む林の手前、林と境内を隔てる竹垣の向こう。ちょうど本堂の裏手に当たる位置に、こちらを向いた男の顔が見える。
遅い午後の日差しは杉の木立に遮られ、男の表情は読み取れない。うたが目を凝らしたとき、また、あの声が聞こえた。
「見ておるぞ」
井戸の底から響くような低い男の声。いつもの声がなおもうたに呼びかける。
「見ておるぞ。見ておるぞ」
うたの手からつるべが落ち、井戸の底でくぐもった水音が上がった。
間違いない。ここしばらくうたを脅かしていたのは、あいつだ。
昨日の午(ひる)過ぎ、この満徳寺──縁切寺に駆け込んだ。徳川家に護られた寺、境内を二重に囲む内塀と外塀。ここならあの男も追って来られないだろうと安心していたのに。
男が竹垣に穿たれた木戸を押し開け、裏庭に入ってくる。険しい顔つきでまっすぐにうたを目指して歩いてくる。
うたは悲鳴を上げて地面にうずくまった。
誰か助けて、今度こそ殺されてしまう。膝に顔を押し付けて震えていると、今度は後ろから女の声で「おうたちゃん」と呼びかけられた。
振り返ると、庫裡(くり)からなつが駆け出してくる。うたより二つ年上の駆け込み女だ。
「おなつさん」
男は手の届きそうなところまで迫っている。うたがまた悲鳴を上げかけたとき、凛とした声がそれを遮った。
「何ごとです」
尼住職の慈白(じはく)が本堂から降り立ったところだ。洗いざらしの作務衣をつけた背を張り、足早にうたに歩み寄る。
男が慈白に顔を向ける。うたは叫んだ。
「慈白様、危のうございます。その男が──」
- プロフィール
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遠藤彩見(えんどう・さえみ) 東京都生まれ。1996年、脚本家デビュー。テレビドラマ「入道雲は白 夏の空は青」で第16回ATP賞ドラマ部門最優秀賞を受賞。2013年、初めての小説『給食のおにいさん』を発表。著書に、シリーズ化された同作のほか、『キッチン・ブルー』『みんなで一人旅』『二人がいた食卓』などがある。