第一章 不審者・前
池永 陽You ikenaga
時計に目をやると二時を回っている。
診察室のイスに深く背中をもたせかけながら、麟太郎(りんたろう)は大きな吐息をひとつもらした。
休み明けの月曜に患者が多いのは今に始まったことではないが、それにしても今日は――。
「お疲れ様でした、大(おお)先生。患者さんの数だけでも大変なのに、今日はいつもより愚痴話や噂(うわさ)話も多うございました。ですから余計に時間もかかって、本当にご苦労様でございました」
傍らに立っている看護師の八重子(やえこ)が、すかさず労(ねぎら)いの言葉をかける。
「まあ、愚痴話や噂話を聞くのも町医者の大事な仕事のひとつだから仕方がねえが、何といっても口さがない連中だから、次から次へといろんな話がな。下町特有の気軽さというか悪気がねえのはわかっているから、助かるけどよ」
溜息(ためいき)まじりにいう麟太郎に、
「そうでございますね、悪気があれば邪険にもできますが、そうじゃないところに難しさがございますね」
年季の入った顔を綻ばせて、八重子は鷹揚にうなずく。
「プライバシーなんぞ爪の垢(あか)ほどもねえ下町に、あっちこっちの噂話はつきもの。火事と喧嘩(けんか)は江戸の花とよくいうが、噂話は毎日の生活の糧のようなもんだからな」
「そうそう」
八重子の顔に、うっすらと笑みが浮ぶ。
「先だっては大先生の隠し子騒動で、町内中が沸き立っていましたからね。大先生もあっちへ行ったり、こっちへ戻ったりで、本当にご苦労様でございました」
嬉(うれ)しそうにいった。
「おいおい、八重さん。その件はすんだことで、もう、いいっこなしだよ。頼むからよ、八重さん」
情けなさそうな声を麟太郎はあげる。
「そうでございました。少々はしゃぎすぎました。申しわけございません」
すました顔で八重子は頭を下げるが、それからすぐに、
「ところで、お昼ごはんはどうなさいますか。『田園』の夏希(なつき)ママのところに行くのでしたら、そろそろ腰をあげませんと、午後の診療時間も迫っていますし。私はお弁当がありますから、いいですけど」
こんな言葉を口から出した。
「夏希ママのところなあ……」
夏希が経営する『田園』はちょうど『真野(まの)浅草診療所』の隣にあって、昼は普通の喫茶店だが夜になるとスナックに早変りするという忙(せわ)しい店だった。
- プロフィール
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池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。