よみもの・連載

下町やぶさか診療所4

第一章 不審者・後

池永 陽You ikenaga

 午前の診療を終えて、麟太郎(りんたろう)が昼食を摂るために『田園』に行くと、すぐに夏希(なつき)が飛んできた。
「大(おお)先生、いらっしゃい。何だか大変なことがあったんですって。徳三(とくぞう)親方が機転を利かせて、苦しむ病人をとっさに戸板に乗せて超特急で診療所に運びこんだので事無きを得たそうだけど。あと五分遅れたら、大事になっていたそうで」
 大袈裟(おおげさ)なことを口にした。
「それほど、切羽つまったことには……」
 ごにょごにょと麟太郎は言葉を濁し、
「それはあれかい。やっぱり徳三親方からの情報かい」
 うんざりした調子でいう。
「ついさっき、聞いたばかりなんですけどね。ほらあそこで」
 夏希が目顔で指す奥の席を見ると、得意満面の表情で徳三が手を振っていた。
「じゃあ、大先生も親方と同じ席でランチということでいいですね。今日のランチは大先生のお好きな、チキンカツですからね」
 こういって夏希は返事も聞かずに、麟太郎の脇を離れていった。
 奥の席に行くと「おうっ、麟太郎。元気そうで何より、何より」と徳三のダミ声が麟太郎を迎える。
「あと五分遅れたら、大変なことになってたそうだな、親方」
 ちょっと皮肉っぽくいって徳三の前のイスに麟太郎は大きな体を落しこむ。
「まあまあ、野暮なことは、いいっこなしだ。細かいことは気にしねえ。それが俺たち江戸っ子の心意気ってえもんだ」
 徳三はにまっと笑い、
「それに、話は盛ったほうが面白え。つまらねえ話を聞かされるほうの身になってみれば、そこはやっぱりよ。何とか面白おかしく話をこさえてやるのが、人の道ってえもんだ。これを人が行う正しい道、すなわち大道というな――そうでござんしょう、大先生」
 屁理屈(へりくつ)じみたことをいって、また、にまっと笑った。
 そんなところへ、夏希がランチのチキンカツのセットを持ってきた。
「あら、話が弾んでいるようですね」
 手際よくテーブルに並べ、
「じゃあ、お二人さん、またあとで」
 手をひらひらさせて離れていく夏希の後ろ姿から視線をテーブルに移し、麟太郎はチキンカツに箸を伸ばす。
「ところで、あの西垣(にしがき)さんなんだが、明日退院してくるそうだ」
 ぼそっとした声を徳三が出した。
「明日退院って――やけに早いな。よほど容体がいいっていうことなのかな」
「容体よりも、どうも金の問題らしいな。入院が長引けば、やっぱりオアシのほうがな。まあ、おめえの手術の出来がよかったということもあるんだろうけどよ」
 珍しく徳三が麟太郎を褒めた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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