よみもの・連載

下町やぶさか診療所4

第二章 恋患いの少年・前

池永 陽You ikenaga

 台所からいい匂いが漂ってくる。
「親父、あの匂いは――」
 潤一(じゅんいち)が嬉(うれ)しそうな声を出した。
「あれは多分、ハヤシライスの匂いだな。それも、ちゃんとした正統派のハヤシライスの匂いだな」
 声を落して麟太郎(りんたろう)はいう。
「俺もそう思う。あれはちゃんとした料理の匂いだ。ということは、今夜はまともな物が食べられそうだということだな」
 身を乗り出してきた。
「待て、潤一、早合点は禁物だ。カレーライスとカレー焼きそばの例があるように、麻世(まよ)の頭のなかは予測不能だ。現物が目の前に出てくるまでは、めったな期待なんぞは持たねえほうが無難だ」
「ああ、あのカレー焼きそばだけは勘弁してほしいけど……しかし、ハヤシ焼きそばなんてのは聞いたこともないから、今夜はまず大丈夫なんじゃないか」
 かなり声を潜めている。
「まあ俺も、今夜はまともな料理が出てくるような気がするが……だがよ、料理人は、あの麻世だからな」
 麟太郎は肩から少し力を抜く。
「何にしたって今夜は楽しみだな。何といっても俺は、けっこうハヤシライスが好きだからさ。しかも、それを麻世ちゃんがつくってくれるというんだから」
 いかにも嬉しそうに潤一がこういったとき、台所から麻世の鼻唄が聞こえてきた。
 高倉健の歌う、いつもの『唐獅子牡丹』だ。
「親父の十八番でもあり、麻世ちゃんの十八番にもなりつつあるな、この歌は」
 ちょっと悔しそうに潤一はいう。
「そうには違いないが、麻世の口ずさむこの歌に近頃、変化がおきてよ」
「変化って――いったい何が変ったっていうんだ」
 すぐに潤一が怪訝(けげん)そうな目を向ける。
「今まで麻世はこの歌の一番と三番だけを口ずさんで、二番は絶対に歌わなかった。それが近頃は――」
「二番も歌うようになったっていうのか。それで、その二番っていうのは、どんな歌詞なんだ」
 興味津々の表情を麟太郎に向ける。
「まあ少し待て、もうすぐ歌うはずだからよ」

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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