よみもの・連載

下町やぶさか診療所4

第二章 恋患いの少年・後

池永 陽You ikenaga

 午前の診察をすませて『田園』に行くと、すぐに夏希(なつき)が飛んできた。
「あら、大(おお)先生、お久しぶりですね」
 ちょんと脇腹を指でついた。
「久しぶりじゃねえだろう。一昨日も俺はここにきているはずだがよ」
「何を野暮なことを。毎日きてくれないお客様は、久しぶり――そういうことになってるんですよ」
 また脇腹を指でつつき、
「じゃあ、お仲間のところへどうぞ」
 奥のほうを目顔で示した。
 そっちを見ると風鈴屋の徳三(とくぞう)が、口をもごもごさせながら手を振っている。
「コーヒーつきのランチでよかったですね。今日のランチは、牛丼ですからね」
 そういってカウンターのほうに戻る夏希に背を向け、麟太郎(りんたろう)は徳三のいる席に向かう。「夏希との件は落着したはずなのに、なんでこいつはこの店に入りびたりなんだ」と胸の奥で呟(つぶや)きながら。
「おう、麟太郎。夏希ママのこさえる牛丼はなかなかいけるぞ。様子のいい女性は、料理もうめえ。まあ、そういうことだな」
 イスに座るなり、機嫌よくいう徳三の声に「そんなことは断じてない」と麟太郎はこれもまた胸の奥で呟く。麟太郎の頭のなかには、麻世(まよ)の顔が浮んでいる。
「ところで、親方」
 麟太郎は徳三を真直(まっす)ぐ見て、嗄(しわが)れた声をあげる。
「例の夏希ママとの結婚話はご破算になったはずだけど、親方はなんでこの店に顔を見せてるんだ。まだ何か、下心でもあるのか」
 ずばりといった。
「何をいってるんだ、おめえはよ。縁は切れても好きだった女が近くにいれば、顔を出すのが下町男の心意気ってえもんだ。女手ひとつで店をきりもりしてるんだ。困ったことや心配ごとや……そういったときに、じゃあ俺がと一肌脱ぐのが真の男ってえもんだ。そうじゃござんせんかねえ、大先生よ」
「それはそうだけどよ」
 と答えてはみたものの、何となく威勢のいい言葉にごまかされたような気がしないではない。
「まあ、いってみれば、親心だ。おめえだって、そうだろ。様子のよさだけじゃなくてよ、そんな気持でここに通ってるんだろう」

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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