第三章 安っさんがきた・前
池永 陽You ikenaga
「あの、おじいさん、またきてますよ」
耳打ちするように八重子(やえこ)がいった。
「あの、おじいさんて――安(や)っさんのことかい」
麟太郎(りんたろう)はちょっと複雑な表情を浮べて八重子に訊(き)き返す。
「はい、その安市(やすいち)さんです。今は待合室のイスに麻世(まよ)さんと隣同士で座って話をしながら、自分の順番がくるのを待ってます――あの二人、どういうわけか、馬が合うみたいですよ」
面白そうに八重子はいう。
麻世は元、筋金入りのヤンキーで、安市は隅田(すみだ)公園の端っこに半月ほど前からブルーシートでつくった青テントを張って住みついた、ホームレスだった。
麻世は人間観察と称して、よく待合室の隅に座ってそこで診察の順番を待っている町の人たちの話に耳を傾けていることがあるが、患者たちと隣同士になって自分も会話に加わるというのは珍しいことだった。
「自分自身がそういう境遇で育ってきたということもあって、麻世はいつも弱い者や虐げられてきた人間の味方だからよ。そんなわけでまあ、安っさんと馬が合うというのも当然のことかもしれねえな」
しみじみとした口調で麟太郎はいった。
「そうですねえ。ですから、お坊っちゃま育ちで苦労知らずの若先生とは、未来永劫(えいごう)ソリが合わないんでしょうね」
何度もうなずきながらいう八重子に、
「八重さん、それはちょっと言葉がよ……」
情けなさそうな声を麟太郎があげた。
「あっ、申しわけありません。私としたことが、ちょっと言葉が過ぎてしまいました」
恐縮した顔で八重子は深く頭を下げた。
「それはそれとして……安っさんの順番はあとどれくらいなんだ」
嗄(しわが)れた声を出す麟太郎に、
「次の次でございます。今日はいったい、どんな病名を口にするのか、とても楽しみではありますね」
嬉(うれ)しそうに顔を綻ばせる八重子に「じゃあ、次の患者さんをよ」と麟太郎は仏頂面で声を出す。
その患者の診察もすむと、いよいよ安市の番になって診察室のドアが遠慮気味にノックされ、小柄な年寄りがおずおずと入ってきた。
- プロフィール
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池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。