第三章 安っさんがきた・後
池永 陽You ikenaga
午後の診察も終り、母屋に戻って居間のソファーに体をあずけてぼんやりしていると麻世(まよ)が学校から帰ってきた。
「おう、麻世、お帰り」
機嫌のいい声を麟太郎(りんたろう)があげると、
「ひょっとして、今日は中島(なかじま)のおじさんの抜糸の日だったのか」
麻世は、いきなり安市(やすいち)の名前を口にした。
「抜糸は明後日だ。今日はいつもの、こじつけ訪問の類いだが、それがどうかしたのか」
「帰りに青テントのなかを覗(のぞ)いてみたけど、今日は姿が見えなかったから。夕方には段ボール集めも終えて、大体テントのなかで体を休めてるはずなのに。そうか、こっちにきてたのか。それなら待合室に座っていれば会えたんだ」
麻世は麟太郎の前のイスに腰を下ろす。
「今日はって――お前、安っさんの青テントに何度も行ってるのか」
怪訝(けげん)な思いで麟太郎は訊(き)く。
「何度も行ってるよ。あのおじさんがここにやってきてからは、二日に一度ぐらいは必ず青テントのほうに」
意外なことを口にした。
「そんなに行ってるのか。それはやっぱりあれか。安っさんの生いたちが、麻世のこれまでと重なる部分が多いという理由からなのか。お前にしたら、とても他人事ではすまされないっていう」
麟太郎の率直な問いに、
「そうだよ」
即座に麻世は言葉を出した。
「あのおじさんが発達障害の一種で軽い知覚麻痺(まひ)になっていて――そのために子供のころから苛(いじ)めにあって、人にはいえないような悲しい思いをしてきたんじゃないかっていう話はじいさんから聞いていたし……」
麻世の声に湿りけが混じった。
「私も小さいときから家が貧乏だということで、容赦のない苛めを受けて除け者にされて、ずっと独りぼっちで」
掠(かす)れ声だった。
その苛めをはね返すために麻世は小学五年のころから今戸(いまど)神社の裏にある古武術の道場に通い出した。ここは林田(はやしだ)という老人が道楽のためにやっているような道場で月謝は無料、麻世でも通うことができた。
- プロフィール
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池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。