よみもの・連載

下町やぶさか診療所4

第四章 妻の秘密・前

池永 陽You ikenaga

 最初は軽い気持だった。
 鼠径(そけい)部のリンパ節に腫れが出て、性器の周辺に痛みが走った。しかしそれも徐々に薄れてきてそれほど感じなくなった。だけど、場所が場所だけにどことなく気になって――。
 美加子(みかこ)は『やぶさか診療所』の門を潜った。
 ここの大(おお)先生なら仏様のような人と周りで噂(うわさ)されているし、看護師の八重子(やえこ)とは向島(むこうじま)にある言問(こととい)団子の店で時折り顔を合せることもあり、そんなときは世間話をする間柄でもあった。多少は気が楽だった。
 しかし、いざ診察室の前に立つと、いくら気の強い美加子といってもやはり緊張した。
 ドアを開けてなかに入ると、
「あら、美加子さん」
 少し驚いたような八重子の声が、すぐに聞こえた。
「こんにちは、八重子さん。今日はお世話になります」
 丁寧に頭を下げると、
「何だ、八重さんの知り合いか」
 野太い声が耳を打った。
 これが仏様のようなといわれている、ここの主(あるじ)の真野麟太郎(まのりんたろう)だ。
「あっ、はい。八重子さんとは言問団子のお店で時々出会って、お茶を頂きながら世間話を……」
 美加子は小さな声で答える。
「言問団子ってのは『いざ言問わぬ都鳥――』の、あの団子のことか。そうか、八重さんは言問団子が好きだったのか」
 顔を崩しながらいう麟太郎に、
「えっまあ、好きと申しますか何と申しますか。お休みの日など、ちょくちょく出かけまして、おいしく頂いております」
 少し照れたような様子で八重子はいった。
「なるほど。そこで馴染(なじ)みになった、要するにスイーツ友達ってやつか」
 美加子と八重子の顔を、麟太郎は交互に見る。
「はい、うちの主人は休みともなるともっぱら接待ゴルフということで、それで私も一人であちこちへ」
 美加子はちょっと弁解じみた言葉を出す。
「なるほど、なるほど」
 麟太郎は一人でうなずきながら、美加子の初診票に目を通す。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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