よみもの・連載

下町やぶさか診療所4

第四章 妻の秘密・後

池永 陽You ikenaga

 夫の利治(としはる)の様子が変だった。
 夕食は利治の好きなチキンカツだったが、それは何とか食べたものの、ごはんのほうは手つかずで丸々残した。
「あなた、どうかしたの。体の調子でも悪いの」
 恐る恐る訊(き)いた。
 ひょっとしたら病気の症状が出てきているのでは……いや、もう、すでに病院に行って診察を受け、病名を知らされているのではないか。そんな思いが一気に美加子(みかこ)の体を駆けぬけた。
「いや……」
 短く利治が答えて言葉を切った。
「新商品がもうすぐ出るから、いろいろ頭を悩まされて、それで疲れているだけだよ。心配することは何もないよ」
 一瞬の間を置いて利治はこう答え、ほんの少し笑ってみせた。
 修羅場は避けられた。
 ほっとはしたものの、いい出せないでいるだけで利治は何かを隠している。どこまでわかっているかは定かではないが、利治は何かを察している。そんな気がした。
 しかし、あの計画を実行すれば、今回の件も何とか乗り切ることができるはずだ。そのためにはまず『やぶさか診療所』へ再度行ってこなければ。そして麟太郎(りんたろう)と八重子(やえこ)を味方にすれば何とか……あのとき同様丸く収まるはずだった。
 美加子には浮気の経験が一度あった。
 五年前――。
 そのころ美加子は少し緩んできた体形を引きしめるため、向島(むこうじま)にあるスポーツジムに通い出していた。そこに杉下(すぎした)という美加子より二つ年下のインストラクターがいた。
 職業柄、杉下は長身で均整のとれた体つきをしていた。そして何よりも美加子の心をとらえたのが、端整で甘い杉下の顔立ちだった。杉下はすでに結婚していて子供もいたが、ジムに通う女性たちには絶大の人気があった。
 美加子もその一人だった。
 顔を見るたび、熱い視線を送った。
 それに気づいた杉下も積極的に美加子に近づいてきて、二人は人目を避けて逢(あ)うようになり深い関係になった。
「こんな綺麗(きれい)な人が、俺の恋人に……」
 杉下は甘い言葉で美加子の容姿を絶賛した。いい気持だった。美加子の心と体は文字通り、宙に舞った。
 そんな関係が三カ月ほど、つづいたころ。
 夕食の仕度をしていた美加子のケータイに杉下から連絡が入った。夫の利治が帰宅するまでには、まだ充分時間があり、美加子は安心してケータイを耳に押しあてた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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