第三章 出師挫折(すいしざせつ)19
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
二十六
諏訪湖(すわこ)の汀(みぎわ)に立ち、晴信(はるのぶ)は陽光を弾く細波を見つめていた。
瞳は眼前の風景に釘付けとなっている。だが、心はそこに向いていない。
脳裡(のうり)にある人物の面影がこびりついて離れなくなっており、さざめく湖面にそれを投影していた。
そして、心の中では、これまで経験したことのない感情が湧き上がり、渦巻いている。
――いったい、どうしたというのか……。
晴信は所在なさげに小さな溜息をつく。
――己の軆(からだ)が、己のものでないようで……地に足を着けている感じがしない。まるで、高熱に浮かされているようだ。それに、不吉な予感の如(ごと)き……この胸のざわつき……。
己の感情を持て余したまま、耳元から水音が遠ざかっていく。
そこに目覚めを促すような声が響いてくる。
「若、いかがなされましたか」
信方(のぶかた)の呼びかけに、晴信が驚いたように振り向く。
「ああ、板垣(いたがき)か……」
戸惑いながら取り繕う。
「……ちょっと考え事をしていた」
「何か気になることでも?」
「色々と……ありすぎて、考えがまとまらぬ」
「諏訪と上伊那(かみいな)に関しては、今のところ上手くいっているではありませぬか。あまり、考えすぎても、いらぬ杞憂(きゆう)となりまするぞ」
「それはそうかもしれぬが……それでも、色々と考えが巡って止まらぬこともある。仕方がないではないか!」
不承面(ぶしょうづら)で答えた晴信を見て、信方は微(かす)かな違和感を覚えた。
─なんだ!?……若の様子が少しおかしい。なにか、これまでにはない動揺のようなものを感じる。気にしておられるのは、諏訪や上伊那のことではないのか?……何か、もっと……そう、内省的なことなのかもしれぬ。
そのように考えた信方は、すぐに態度を変える。
「差出口(さしいでぐち)をききまして、申し訳ござりませぬ。存分に、お考えくだされ。されど、そろそろ新府へ戻られる頃合いかと。皆、待っておりまする」
「ああ、もう、さような時刻か」
「はい」
「わかった」
晴信も頷(うなず)く。
「板垣、実は……」
そう言いかけて、次の言葉を吞み込む。
乱れて脈打つ己の感情を的確に表現できそうになかったからだ。
「……いや、なんでもない。すぐに支度を済まして新府へ戻る。後の事は頼んだ」
晴信は気を取り直すように笑顔を作る。
「承知いたしました」
信方も余計な言上を控えた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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