第三章 出師挫折(すいしざせつ)20
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
二十六(承前)
「その方、いつから、そこにいた?」
信秋(のぶあき)が睨(ね)めつける。
いつでも棒手裏剣を放てる態勢だった。
「……先ほどから」
「盗み聞きをしていたのか?」
「いいえ。竜王鼻(りゅうおうび)の治水に進捗がありましたゆえ、板垣(いたがき)殿にご報告をと思いましたが、お話が始まってしまいましたので声をかける機を失い、動けなくなりまして」
「それでも盗み聞きしていたことに代わりはない」
跡部(あとべ)信秋が怒気を含んで言う。
「まあ、待て、伊賀守(いがのかみ)。菅助(かんすけ)、面(おもて)を上げよ」
信方(のぶかた)が二人に割って入る。
「……申し訳ござりませぬ」
菅助が眼帯をした顔を上げる。
「そなたは新参者ゆえ、まだわからぬかもしれぬが、われらにとっては御家の存亡に関わる話をしていた。何を聞いたのか、ここで申してみよ」
「……はい。では、懼(おそ)れながら申し上げまする。それがしの耳に入りましたところによりますれば、今は亡き諏訪(すわ)頼重(よりしげ)殿には隠し子の娘がおり、その実子の処遇を検討していたところ、御屋形(おやかた)様がお見初めになってしまわれたと。されど、その娘にとって御屋形様は父親の仇(かたき)ともいえ、とても御側に置くことは考えられぬと。そこで皆様が苦慮し、何とか穏便に二人を引き離せぬかと策を練っておられた。さように聞こえましてござりまする」
菅助の要領を得た簡潔な説明を聞き、信方と原(はら)昌俊(まさとし)が思わず顔を見合わせる。
「その先は?」
信方が話を促す。
「その娘をどこかに輿入(こしい)れさせる、あるいは病気に見せかけて仕物(しもの)にかける。様々な策があれど、母子ともども諏訪頼重殿の冥福を祈るため京の尼寺へでも出家させる策が最善ではないかとお聞きいたしました。それならば、当人たちの強い願いとして不自然ではないと」
「なるほど、しっかりと盗み聞きをしていたようだな」
「いいえ、それだけではありませぬ。それがしは諸国を旅しながら、各所から内密な話がこぼれ出るのを拾っておりましたゆえ、武田家から禰々姫(ねねひめ)様が輿入れなさる直前に、諏訪頼重殿が子を産ませた側女(そばめ)と娘を人知れず隠したという話を耳にいたしました。その娘は幼少の頃から、たいそう美しく、三国一の器量ではないかとも噂されておりました。ただし、母君が侍女(まかたち)の出自ゆえに側室とも認められず、武田家との婚姻により和がもたらされた暁には、どこかで庶流としてひっそりと暮らすことになるであろう、という者もおりました。それがたまさか、頼重殿の変心によって諏訪に残ってしまったのではありませぬか。その娘は諏訪の直系に連なる者ゆえ、信濃中(しなのじゅう)の者が掌中に収めようと躍起になって探しているとも。確か、麻亜(まあ)という名の娘で、歳(とし)の頃は十五、六と聞きましたが、さような境遇のために、まだ御裳着(おもぎ)も済ましていなかったのではありませぬか」
菅助の言葉に、三人は驚愕(きょうがく)する。
すべて的を射ていたからだ。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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