第三章 出師挫折(すいしざせつ)22
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
二十六(承前)
「惣領(そうりょう)としての規範で己を律し、他人よりも厳しい忍耐を課すということは、まことに御立派な振舞と存じまする。その姿勢がなければ、家臣や民の手本にはなれますまい。されど、若。己に重圧を課し続けるだけの日々では、息苦しくて身動きが取れなくなることもありましょう。違いまするか?」
「板垣(いたがき)……」
「それゆえ、時には御自身を解き放つことも重要かと。たとえ、少しばかり正道を外れるとしても、心の欲するまま流れに身を任せてみてはいかがにござりまするか。もしも、そのことに負目を感じられるのならば、懼(おそ)れながら、御側に仕えるわれらも一端を背負わせていただきまする。そうした前提の上で、若の偽りなき所望をお聞かせくださりませ」
信方(のぶかた)の言葉を聞き、晴信(はるのぶ)は静かに瞼を閉じた。
「はぁ……」
小さく溜息をついてから、しばらく黙ったまま瞑目(めいもく)を続ける。
その間、信方は身動(みじろ)ぎもせず、真っ直ぐ晴信の顔を見つめていた。
やがて、己の心持ちを整理し終えたかのように、晴信がゆっくりと眼を開く。
「……うまく伝えられるかどうかはわからぬが、いま思うていることをなるべく正直に話すつもりだ」
「お願いいたしまする」
「於麻亜(おまあ)に出会うてから、あの淋しげな面影が脳裡(のうり)にちらついて離れぬ。それを振り払おうと政(まつりごと)のことなど考えようとするが、気がつくといつも、あの娘のことを考えている。まるで己の心が己のものではないように動いてしまう。他人のことがこれほど気になるのは初めてなのだ。今はなにゆえ、あれほど淋しげな表情をしているのかを知りたくてたまらぬ。同時に、己の心奥にいったい何が巣くったのかを知りたい……」
晴信は真摯な口調で言葉を続ける。
「……さりとて、側室に迎えたいというような我欲を抱いているわけではないのだ。……とりあえず、話を……でき得るならば、ちゃんと向かい合うて話をしてみたい。さすれば、あの淋しげな面持ちの意味がわかり、己の心も平静を取り戻せるのではなかろうか。……いや、されど、事はさほど簡単ではあるまい。あの娘がすぐに心を開いて話をしてくれるとも限らず、この身とて、いかような態度で相対すれば良いのか、皆目見当もつかぬ。話すことさえ拒まれたならば、どうしてよいかわからぬ。ならば、いっそ、このままの方がよいのやもしれぬ……」
まるで、自問自答するかのような様子だった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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