第四章 万死一生(ばんしいっしょう)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
二十九(承前)
当面の方針が定まり、無事に評定始めが終わった。
久方ぶりに信方(のぶかた)が新府の屋敷へ戻ると、待ち構えていたかのように訪問客が現れる。
「いつぞやは諏訪(すわ)でお世話になりました」
三条(さんじょう)の方の侍女頭(まかたちがしら)、常磐(ときわ)だった。
「お久しゅうござる、常磐殿。直々にお出でとは、いかがなされました?」
「諏訪にて色々と難儀が起きている、と教来石(きょうらいし)殿からお聞きしましたのでお伺いいたしました。御屋形(おやかた)様が十日もお戻りになれませぬ大事とあらば、駿河守(するがのかみ)殿のお役目もさぞかし大変でありましょう。ならば、お支えする藤乃(ふじの)殿の心痛はいかばかりかと……。お察しいたしまする。こちらは三条の御方様からの御見舞いの品にござりまする。どうか、藤乃殿へお渡しくださりませ」
常磐が袱紗(ふくさ)に包んだ宮笥(みやげ)を差し出す。
「これは、また過分なお気遣いを……。かたじけなし」
信方は動揺を隠しながら受け取る。
――いつ会うても、この女人は苦手だ……。すべて見透かされているような気分になる。
「常磐殿、三条の御方様によろしくお伝えくだされ」
「はい。本年のお正月は三が日を御屋形様や太郎(たろう)様と親密にお過ごしなされ、御方様は近年にないほど嬉しそうになされておりました。されど、御屋形様が諏訪へお出ましになられてから、いつお戻りになるのやも知らされず、大層ご心配なさり、毎日沈んでおられました。もちろん、それは太郎様とて同じ」
「それは、まことに申し訳ない……。申し訳ないとは思うのだが、当家にとっても諏訪のことは今、最も大事と言うても過言ではないのだ。念願の諏訪大社がわれらの傘下に入り、これをしっかりと治めていくためには、今が正念場。同時に、かの地は当家にとって信濃(しなの)進出への足掛かりとなる要(かなめ)にござる。それゆえ、御屋形様の軆(からだ)の半分は、諏訪での政務に取られても致し方なし。ご理解くだされ」
「……存じ上げておりまする。御方様もよくわかっておられ、余計な愚痴をこぼすでないと、この身は常々お叱りを受けておりまする。されど、われら裏方の者にとっても、今が正念場にござりまする」
「裏方の……正念場?」
「はい。差出口(さしでぐち)になるやもしれませぬが、太郎様は立派にご成長なさり、御元服の時も迫っておりまする。御屋形様と信繁(のぶしげ)様のように、戦場(いくさば)で太郎様をお支えするような弟君を授かるならば今しかありませぬ。あまりに年が離れ過ぎては、御兄弟の絆(きずな)が薄くなりまする。御元服の前の今だからこそ、弟君が誕生なされば、お世継ぎとしての立場も盤石のものとなり、武田家の繁栄も約束されるのではありませぬか。今、御方様の御懐妊だけが、われら台所をお預かりする裏方の者たちの悲願にござりまする。これ以上遅くなっては、意味がありませぬ。もちろん、太郎様もそれを切望されておりまする」
口調は静かだったが、常磐の言葉には断固たる決意が秘められていた。
信方はそれに気圧(けお)される。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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