第四章 万死一生(ばんしいっしょう)6
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
三十二
夜更け過ぎの上諏訪(かみすわ)、桑原(くわばら)城の一室で二人の漢(おとこ)が向き合っていた。
この城は上原(うえはら)城から北西に一里(約四㌔)ほど行ったところにあり、支城(ささえじろ)としての役割を果たしてきた。
武田家が諏訪に攻め入った時、諏訪頼重(よりしげ)は本拠であった上原城を捨て、この桑原城に逃れて籠城した。しかし、本城を捨てた主君を家臣の多くが見限り、逃亡してしまったため、頼重は降伏するしかなくなったという曰(いわ)く付きの城である。
桑原城にいた漢の一人は、素襖(すおう)を身に纏った武将であったが、もう一人は僧衣に身を包んだ法体(ほったい)の者だった。
「兄上、武田晴信(はるのぶ)に側室が嫁いだという話はご存じか?」
素襖の袖をたぐり、諏訪満驕iみつたか)が訊く。
「ああ、禰津(ねづ)家から嫁いだ娘と聞いたが」
法体の諏訪満隣(みつちか)が答える。
「ふん……」
弟の諏訪満驍ヘ鼻を鳴らし、勢いよく扇を開く。
「……さような話を、まことに信じておるのか?」
「甲斐の新府では、確かに禰津御寮人(ごりょうにん)と呼ばれているが……」
兄の満隣は眉をひそめた。
「表向きは禰津家から嫁いだということになっているが、あれは頼重殿が武田の娘を娶(めと)る前に隠した実の娘だ」
「ま、まさか!?」
「間違いない。上社(かみしゃ)での祝言を覗(のぞ)き見て確認した。あれはまさしく頼重殿の娘だ」
満驍フ断言に、兄の満隣は思わず嘆息を漏らす。
「……なにゆえ、頼重殿の落とし胤(だね)が武田家に」
二人は諏訪頼重の叔父にあたり、共に諏訪惣領(そうりょう)家を支えた重臣だった。
「それだけではないぞ、兄上。あの娘はすでに武田晴信の子を身籠もっている。これは諏訪宗家の再興をめざすわれらにとっても由々しき事態ではないか」
「宗家の再興と申しても……」
「頼重殿亡き後、諏訪の正統を継げるのは、われらしかおりませぬ。今は武田の傘下に入れられているが、決して家来になったわけではない。諏訪の地は、諏訪家の血脈を受け継ぐ者が統(す)べるべき。諏訪の衆もいずれは、われらの下に戻ると信じているからこそ、武田の横暴にも耐えながら凌(しの)いでいるのだ。されど、頼重殿の娘が武田晴信の子を産むとなれば、われらの悲願が水泡に帰すことになりかねぬ。男子(おのこ)が生まれれば、おそらく諏訪の名跡を嗣(つ)がせようとするであろうし、女子(おなご)が生まれても養嗣子(ようしし)だなんだと言い出すであろう。いずれにしても、われらによる諏訪宗家の再興ができなくなる。これが由々しき事態でなくて、何であろうか」
諏訪満驍ェ忌々しそうに吐き捨てる。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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