第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)8
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
五十五
「綱成(つなしげ)殿、越後(えちご)勢が夜陰に乗じて坂木(さかき)から退陣いたしました」
義信(よしのぶ)の言葉に、北条(ほうじょう)綱成は笑顔で頷(うなず)く。
「こちらも物見から同様の報告を受けておりまする。越後の長尾(ながお)景虎(かげとら)は毘沙門天王(びしゃもんてんのう)の生まれ変わりを標榜(ひょうぼう)していると聞いたが、一戦も交えずに尻尾を巻くとは、口ほどにもない。少々、拍子抜けいたしました」
「北条勢の援軍もいると知り、恐れをなしたのでありましょう」
「義信殿、追撃いたしまするか?」
綱成が真顔に戻って訊く。
「父上からは敵が逃げたのならば、慌てて追撃する必要はないと言われておりまする」
「ほう、大膳大輔(だいぜんのだいぶ)殿がさようなことを……」
「ただし、追い立てるのならば、じっくりと圧をかけながら追う分には止めはせぬ、とも申されました」
「あえて、敵を討ち取ることはしなくてもよいと?」
「さようにござる。わざわざ援軍に来ていただいて申し訳ありませぬが、われらも北条の方々も無駄に兵を損じるような戦いをするなとの厳命にござりまする。武田菱(びし)と並ぶ北条家の三(み)つ鱗(うろこ)の旗印を見て、越後勢が上田(うえだ)から退(ひ)けば充分だと」
「なるほど」
「されど、それがしには越後勢を川中島(かわなかじま)まで追い立てる裁量が与えられておりますので、綱成殿はいかがいたしまするか?」
義信の問いに、綱成は思案顔になる。
――義信殿は、われら北条勢の気概を試しているのか?
そう思いながら、それとなく相手の表情を窺(うかが)う。
――試されているのだとしても、せっかく信濃(しなの)まで出張ったのだ、このまま手ぶらで帰るというのはもったいなかろう。西上野(にしこうずけ)と近い信濃の一帯を検分しておくべきだ。特に今、武田家と越後勢の境界となっている川中島とやらの地勢には興味がある。今後のためにも出張ってみるか。
「義信殿、では、両軍でゆるりと追い立てましょうぞ。長尾景虎がどこまで退くつもりか確かめてみたい」
「おお、それがしと同じお考えにござる。では、すぐにでも出立いたしましょう」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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