連載
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第一話 北欧まで何マイル加藤千恵 Chie kato
 美しい。すっごく美しい。
 あたしはもう数度も、数十度も眺めた雑誌のページに、また目を落とし、感嘆のため息をこぼす。
 たった一枚のプラスチックシートを折ってできているのだというシェードの、北欧の照明。まるで花のような形をしている。あたたかな印象の、オレンジの光をたたえ、柔らかくこぼしている。
 こんなに可愛い。でも、値段は全然可愛くない。
 あたしが必死に一ヶ月、友だちの誘いを断って、放課後にスーパーのレジを打ちつづけたくらいじゃ、全然足りない金額が、そこには記されている。
 この商品にかぎったことじゃない。半球のシェードが特徴的なテーブルライトも、布をシェードに使っている、和風にも見えるライトも、どれもこれも、あたしが買えるような金額じゃない。学年一モテる男子どころか、テレビの中でしか見られないアイドルみたいに遠く、振り向いてももらえない存在だ。
 それでもいつか手に入れるのだ、とあたしは決めている。願っているのでも夢見ているのでもない。決めている。
 小学生のときから暮らしているせいで、この部屋にはセンスのかけらもない。中身がぐしゃぐしゃになっているのが丸わかりのプラスチックケースや、何の変哲もない古びた蛍光灯や、漫画雑誌の付録だったシールをべたべたと貼りまくった木製のタンス。そうしたものに囲まれて、中学時代の指定ジャージ姿で、北欧インテリアという名の雑誌をめくるあたしは、今は北欧から遠くかけ離れている。おそらく実際の距離以上に。
 だけど再来月、あたしはこの部屋を出て引っ越しをする。
 考えただけでニヤニヤしてしまう。
 だって単なる引っ越しじゃない。東京で一人暮らしを始めるのだ。
 ひとりぐらし。しかも、とうきょう。
 なんて甘くって優雅な響きなんだろう。空間があたし一人のものになるなんて。照明だけじゃない。収納家具も、テーブルも、なにもかも、自分の趣味で決めていい。考えただけで、感激で震えそうになる。
 しかも東京だ。あんなに行きたくてたまらなかった、ずっと憧れつづけた東京で、あたしはついに生活をスタートさせるのだ。
 もちろんこの雑誌に載っているものが買えるわけじゃない。うちはもともとお金持ちじゃないし、お父さんはいまだに、あたしが地元の短大じゃなくて、東京の大学に進学するのを選んだことに不満を抱いているのを隠してない。このうえ好き放題買い物させてもらえるとは思えない。
 それでも、東京という言葉も、一人暮らしという言葉も、あたしを幸せにする魔法のようなものだ。宝くじが当選するってこんな気持ちかもしれない。


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〈プロフィール〉
加藤千恵
1983年北海道生まれ。立教大学文学部日本文学科卒業卒業。
2001年、短歌集『ハッピーアイスクリーム』で高校生歌人としてデビューし、話題に。短歌以外にも、小説、詩、エッセイなど、さまざまな分野で活躍。
主な著書に『ハニー ビター ハニー』『さよならの余熱』『あかねさす――新古今恋物語』『その桃は、桃の味しかしない』など。
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第二話 彼女の知らない駅で
第一話 北欧まで何マイル