第一章
加藤 元Gen Kato
一
「起きている?」
とん、とん、と、弱々しいノックの音。
「マリちゃん?」
立野(たての)マリは眼(め)を開けた。
三十年ものあいだ、見慣れた天井。薄汚れた夏用カーテンの隙間から日が差している。いつの間にか寝落ち、夜は明けていた。
眠る前は、いつもと同じ。真夜中過ぎまで、だらだらとあいつのSNSを見ていた。中学や高校の仲間とまだつるんでいる、あいつ。結婚して五年、四歳の娘を持つ、しあわせいっぱい自慢の日々を送るあいつ。
まるきり変わっちゃいないんだ、あのころと。
「マリちゃん」
世界って、どうしてこんなにも不公平なんだろう。ぐるぐるめぐる、いつもの苦み。眼を閉じてもなかなか寝つけなくて、ようやく眠りについたのは四時をまわってからだろう。いや、窓の外、カーテンの向こうは、そろそろ明けつつあったかもしれない。すると、五時過ぎだったかな。
いずれにせよ、寝不足。
「時間よ、マリちゃん」
何時?
枕もとを手で探る。まず、眼鏡だ。視力は左右ともに0・1。眼鏡がなければなにも見えない。そのくせ大事には扱っていないので、いくぶん歪(ゆが)んできているフレームに指先が触れる。レンズを無造作につまみ上げる。指紋べったり。が、気にしない。どうせすでに皮脂で曇っているのだ。眼鏡を装着。電気スタンドの横に置いてあるスマートフォンを手に取る。
午前九時を少し過ぎたところ。
あれ、昨夜、八時四十五分に設定した目覚ましアラームをオンにしておいたつもりだけど、おかしいな、鳴らなかった。寝ぼけて切ってしまったのか。
今日は木曜日。アルバイトのある日だ。八時四十五分に起きたかった。そうすれば、少しは余裕を持って身支度ができただろうに。
「マリちゃん」
ドアの向こうから、気づかわしげな声が繰り返す。