第二話 前編
木原音瀬Narise konohara
原稿用紙のマス目を埋めないといけないのに、何もネタが浮かばない。そして空っぽの脳内をなぜか「お魚くわえたドラ猫〜」のフレーズが回る。意味不明だ。
「捜し物屋まやま」の事務所、ソファの上に寝転がったまま、間山和樹(まやまかずき)は虫食い穴がぼこぼこ空いているように見える天井の石膏(せっこう)ボードをぼんやりと見上げていた。
「できないじゃない、やるんすよ!」という担当編集者、松崎(まつざき)の強い押しで、七月発売の文芸誌「わん」の初恋特集のラインナップにねじ込まれてしまった。初恋をテーマにした短編を七人の作家が書くことになっているらしい。
小説っていうのは、内から沸き上がってくるものであって、人に強制されて書くもんじゃないだろと思うものの、その沸き上がりを待ってはや数年……形になったものはゼロ。そもそも沸き上がるための原材料はあるのか? という根本の問題になってきている。
テーマがテーマだし、実体験を書けばいいのかもしれないが、肝心の初恋がいつなのかわからないという体たらく。女の子をかわいいなと思うことはあるが、それが恋かと聞かれると確信はない。感情なんてあやふやで不確かなものに、名前をつけること自体がおかしいんじゃないかという疑問は、虚(むな)しくもこのテーマの全否定になる。
未確認物体みたいな恋愛事情だが、好きだと思った子と一度だけ付き合ったことがある。けれど白雄(しお)に奪われて終了した。同じ家、隣の部屋の義弟に取られるとか、漫画かってぐらい最悪のパターンで絶縁レベルの大喧嘩(げんか)になった。それでも関係修復、仲直りできたのは、白雄が彼女をそれほど好きではなかったのと、彼女が自分に興味がなくなっていたと薄々察知していたからだ。
白雄が義兄兼友人の自分に猫みたいに懐いているのはわかっている。ただ気に入っている人間に対してさえも、白雄は猫がネズミをいたぶるように、傷つくとわかっていながら面白半分に爪でちょいちょい引っ掻(か)く。たまにがぶりと、致命傷を与えない程度に噛(か)みついてくる。蓄積されていくダメージ。こっちはたまったもんじゃない。人を傷つけて反応を楽しむ、その心理が自分には理解できない。これは今に限ったことじゃない。白雄は昔から、ずっとこうだ。
白雄のことを突き詰めて考えていくと、初恋どころか暗黒世界に迷い込みそうで、思考からシャットアウトする。床を這(は)いずりそうなほど低調なこのメンタルは、素材もなければストーリーも浮かばないことに加えて、地味に、断続的に続いている騒音も少なからず影響しているに違いない。
五月の連休が明けてすぐ、近所の駐車場で工事がはじまった。一日で設備がすべて取り払われて、次は何ができるのかな、コンビニだといいな〜と都合のいい妄想をしていたら翌日、工事関係者だという作業着姿の人がビルを訪ねてきて「駐車場の跡地にアパートを建てることになり、しばらく騒音が出ると思います。工事は九時から十七時の間で、近隣の皆様にはご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と手土産を置いていった。
- プロフィール
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木原音瀬(このはら・なりせ) 高知県生まれ。'95年「眠る兎」でデビュー。ボーイズラブ小説界で不動の人気を博す。
ノベルス版『箱の中』『檻の外』が’12年に講談社より文庫化され、その文学性の高さが話題に。
『美しいこと』、『秘密』、『吸血鬼と愉快な仲間たち』シリーズ、『ラブセメタリー』、『罪の名前』など著書多数。
- 登場人物
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間山和樹(27) 捜し物屋所長&小説家。白雄とは血の繋がらない兄弟。
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間山白雄(27) 捜し物屋スタッフ&マッサージ師。冷血な能力者。
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徳広祐介(39) ドルオタ弁護士。捜し物屋と同じビル内の法律事務所に勤務。
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三井走(37) 捜し物屋の受付&法律事務所の事務担当。天涯孤独の元引きこもり。