第一章
楡周平Shuhei Nire
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「貴美子(きみこ)さん、ちょっと……」
開店前のミーティングに向かおうと控室を出た貴美子は、支配人の松山(まつやま)に声をかけられて、その場に立ち止まった。
ニュー・サボイは、赤坂にある東京最大級のナイトクラブだ。
ホステス数二百余名。米国製の豪華なソファーが置かれたボックス席は、政財界の重鎮たち、果ては裏社会の実力者たちまでもがやって来て連日満席となる。
しばしば酔客が、「日本を潰すのは簡単だ。ここに爆弾一発落としゃいい」と口にするのだが、それもあながち冗談とは言えない。各界の要人、重鎮が一堂に会する場は、日本のどこを探しても、この店以外に存在しない。
それゆえに、ホステスの採用基準は厳しく、特に容姿が重要視される。
ニュー・サボイの採用面接は独特で、化粧を入念に施した後、接客時に着用するドレス姿で行われる。それも、カーテンを閉じた部屋で、照明を暗くし、そして明るくしながら面接官の質問に答えるのだ。
入店後、同僚となったホステスが語るには、「普段は薄暗くしてるけど、ショータイムの間は、ステージを照らすスポットライトの光で客席が明るくなるでしょ? 美人だと思っていた女性が、実はとなったら、お客さんも興醒めしちゃうじゃない」と理由(わけ)を説明してくれたのだったが、確かに貴美子の目から見ても飛び抜けた美貌の持ち主ばかりである。
「何度も言わせないでくれよ。いい加減その指輪外してくれないかな」
松山は苛立(いらだ)ちの籠った声で言う。「亭主になる予定だった男に義理だてしてるのか何だか知らないけどさ、戦死したんだろ? そんな立派な指輪をこれ見よがしに嵌(は)めてりゃ、客は人妻だと思うに決まってるじゃないか。ここがどんな場所なのか分かって入ってきたんだろ」
松山が言う指輪とは、貴美子の左手の薬指に嵌められている銀の指輪のことである。
細工も施されていないただの指輪だが、特徴的なのは幅が一般的な結婚指輪の二倍ほどあることだ。これ見よがしと言うのは、その点を指してのことである。
「申し訳ありませんが、それだけはご容赦ください……。亡くなったとは言え、私には将来を誓った人がいたのです。この指輪は、その証しで――」
「それはこの前も聞いたよ! だったらさあ、せめて右手ってわけにはいかないのかな。とにかく左手は止(や)めてくれよ。大体、面接の時に、指輪はしないって貴美子さん、言いましたよね」
確かに言った。