那覇地裁は沖縄県庁や沖縄県警本部のほぼ裏手にある。観光客でいつもごった返す国際通りにも近く、那覇市のほぼ中心部にあるといってよい。 これまでに30数回を数える沖縄取材でこの建物の前を何度通ったかわからない。けれど敷地内はいつも不思議なほど閑散としていた。 だが、2017年11月16日は、早朝から様相が一変した。 敷地内には在沖テレビ局の中継車がびっしり並び、この日初公判が行われる裁判の傍聴券を求める人々が建物の外まで長蛇の列をつくった。 配布された傍聴抽選券は498枚を数えた。一般傍聴席はわずか22席しか用意されていないから、実に22・6倍の倍率である。 私も裁判所に隣接する法務局の登記所には何度も通ったことがある。だが、裁判を傍聴するため那覇地裁の前に並んだのは初めてだった。 2016年のゴールデンウィーク直前に沖縄本島中部うるま市在住の島袋里奈さん(当時20歳)がウォーキング中に行方不明になった。 両親や婚約中の恋人の必死の捜索もむなしく、彼女の行方は杳(よう)として知れなかった。 行方不明から約3週間後の5月19日、沖縄本島中部恩納村(おんなそん)山中の雑木林で彼女の遺体が発見された。遺体はほぼ白骨化していた。 遺体発見場所が判明したのは、警察が任意で取り調べ中のケネス・フランクリン・シンザト容疑者(事件当時32歳、以下シンザト)の供述によるものだった。 シンザト容疑者は元海兵隊員で、その後軍属となり沖縄最大の米軍キャンプ・嘉手納(かでな)基地などで働き、事件当時は沖縄本島中部金武町(きんちょう)の米軍キャンプ・ハンセン内にあるインターネット関連会社に勤務していた。 この事実が明らかになると、沖縄のメディアによる報道は、米軍と基地を糾弾(きゅうだん)する見出し一色で埋め尽くされた。 「最悪の結末」「米軍は出て行け」「通夜あふれる怒り」「今も植民地扱い」「もう我慢できない」……。 地元紙は殺害された島袋里奈さんが愛くるしい笑顔を浮かべ、両手でVサインをする生前の写真も載せた。そのあどけなさも沖縄県民の涙を誘った。 遺体が発見されてから約1か月後の2016年6月19日、那覇市の奥武山(おうのやま)公園陸上競技場で開かれた県民大会には、「海兵隊は撤退を」「怒りは限界を超えた」などと書かれたプラカードを持った参加者が、主催者側発表で6万5000人も集まった。 私はこれまで沖縄に関する本を二冊出してきた。 沖縄のヤクザ抗争や軍用地主など沖縄の人々がこれまであまり語りたがらなかったため、戦後史の闇となっていた問題を暴いた『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』と、集団自決を含めた沖縄戦の凄惨な実態を当事者からインタビューしてルポした『沖縄戦いまだ終わらず』(いずれも集英社文庫)である。 両書に共通するのは、きちんとした沖縄史が書かれなければ、日本の本当の近代史や戦後史はわからないという私の思いである。