「わが内なる他者」としての沖縄 近代の沖縄は、明治5(1872)年に明治政府が断行した「琉球処分」によって始まったといわれる。 これによって、約500年間続いた琉球王国は滅亡し、琉球藩を経て沖縄県として日本国に併合された。これは紛れもない事実である。 だが、これより260年あまり前の慶長14(1609)年、薩摩藩が琉球に侵攻し、琉球を事実上の支配下に置いたことはあまり知られていない。 薩摩藩は3000人の兵を率いて奄美(あまみ)大島から沖縄本島の首里(しゅり)城まで進軍した。これに対し琉球王は和睦を申し入れて首里城を開城した。 これから書くのは、それから現在までの400有余年に亘(わた)る琉球と沖縄の長い歴史についてである。 沖縄の歴史というと、「鉄の暴風」といわれた沖縄戦から始まる戦後史をイメージする読者もいるだろう。 あるいは、1972(昭和47)年の本土復帰から沖縄の歴史は始まったと勘違いしている人がいる可能性もある。 それほど、琉球と沖縄の“前史”は、専門の研究者は別として一般にはほとんど知られてこなかった。 その闇に閉ざされた歴史をここで詳(つまび)らかにするのは、その“前史”の中に、現在に至るまでの沖縄の矛盾がほぼ全て内包されていると思われるからである。 私がこれから取り上げるエピソードを読んで、そんな興味本位の話は沖縄の歴史と何の関係もないじゃないかと思われる方がいるかもしれない。 だが、性急な結論を出すのは少し待ってほしい。私はおびただしい数の沖縄史の本を読んできた。そこで感じたのは、いずれの本にも共通するイデオロギー過多の硬直性だった。 なによりもまず、この硬直性を解き放って沖縄の歴史を「人間の物語」に取り返さなければならない。そう思ってこの原稿を書いたことを最初にお断りしておきたい。 ここで私が言うイデオロギーは、左右のいかんを問わない。長い射程距離で歴史をみれば、歴史を動かすのはイデオロギーではなく、そこに存在する人々の集合的無意識の分厚い堆積である。 何よりも私は興味の赴くままに書くことに自由でありたい。それが沖縄を誰にも身近な存在にさせる近道だと信じているからである。 沖縄関係の著作が多い立命館大学教授(社会学)の岸政彦は、最新刊の『はじめての沖縄』(新曜社)で、「沖縄は一冊の分厚い本のようなものである」と述べている。 この意見に私は全面的に賛同する。とりわけ次の件(くだり)を読んだときは、わが意を得たりと快哉を叫びたい思いだった。 その部分を少し私なりの解釈を加えて紹介すれば── 私たちが沖縄を好きなのは、日本の内部にあって日本とは異なる、内なる他者だからだ。だが、沖縄は間違いなく日本の一部である。それでいて私たち日本人の多くが、沖縄を異国扱いしているのは沖縄を持て余しているからだ。 沖縄について知れば知るほど学ぶべきことが次から次へとあらわれる。沖縄は私たちの鏡だ。それは反転した日本だ。日本にはない良いものがたくさんあって、同時に、日本が捨ててしまった悪いものもたくさん残っている。私たちが沖縄をもてはやすとき、無意識に必ず日本をけなしている。そして沖縄を批判するとき、知らず知らず日本を基準にしている。 つまり私たちは沖縄のことなど語っていない。ひたすら日本や自分たちのことを語っている。沖縄はすばらしい島だ。その沖縄賞賛の声は必ず日本に比べてという常套文句付きで語られる……。 特に「私たちは沖縄を持て余している」という文言は、沖縄を書き続けている私にとって目から鱗が落ちる発言だった。 沖縄は辺野古(へのこ)や普天間(ふてんま)だけで語れるような貧弱な島ではない。 日本政府対基地建設反対派という単純な二項対立だけで語れるくらいなら、私は沖縄と付き合うつもりはない。沖縄の自然の美しさと生活の貧しさは、私を感動させながらうんざりさせる。 私はこれからも連載が続く本稿で、辺野古や普天間問題から零(こぼ)れ落ちた事実を拾い集めて、それを丹念に取材してゆくつもりである。 それは権力者を喜ばすだけではないか。そういう古典左翼的な見方もあるだろう。 しかしそうでなければ見えてこない歴史的「分厚さ」が沖縄にはあることを私は確信している。