連載
沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

「琉球一の男になれ」と言われて命名された徳田球一
 前回連載の最後で、敗戦直後の沖縄の左翼活動家たちの言動が、沖縄の本土復帰の原動力となったと書いた。
 本来なら、仲宗根源和(なかそねげんわ)や瀬長亀次郎(せながかめじろう)など彼ら沖縄左翼の戦後の活動について述べるべきだが、その前に、沖縄における左翼活動家中屈指の大立者だった徳田球一(とくだきゅういち)の波瀾万丈の人生について述べたい。
 徳田球一は戦前共産党に入党し、何度も投獄された。しかしその都度不死鳥のように蘇り、日本共産党の戦後最初の書記長になった。
 歴代日本共産党幹部の中で、おそらく最も人口に膾炙(かいしゃ)したのは、「オヤジ」と呼ばれて右からも左からも慕われた徳田球一だろう。
 徳田球一をここで取り上げるのは、徳田の人生が、けた外れのスケールをもっていたからである。今沖縄に暮らす人々は、私の目には、ひどく萎縮して自信なさげに見える。
 そうした人々に自信を回復してもらいたいと願って、「忘れられた沖縄人」の徳田球一を取り上げた。
「球一」という名前は、どこにでもある名前ではない。この珍しい名前は、両親が「琉球一の男になれ」と願ってつけられたものである。
 徳田が生まれた1894(明治27)年は、琉球処分から20余年しか経っておらず、沖縄というよりまだ琉球という国名のほうが親しまれていた。
 徳田の本格的取材に入る前に、社会運動研究家の渡部富哉(わたべとみや)に三鷹市の自宅で会った。渡部は『徳田球一全集』(五月書房)の編集事務局長をつとめた男である。
 また戦後、日本共産党によって広められたゾルゲ事件の発端が伊藤律(いとうりつ)であり、伊藤は特高のスパイだったという説を覆した『偽りの烙印』(五月書房)の著者としても知られている。
 ゾルゲ事件とは、ロシア人とドイツ人の間に生まれたリヒャルト・ゾルゲを主謀者とするソ連のスパイ組織が、太平洋戦争前夜の日本国内で諜報活動を展開した国際スパイ事件である。
 この事件では、ゾルゲとゾルゲに協力した元朝日新聞記者の尾崎秀実(おざきほつみ)の二名が死刑に処せられた。
 渡部はゾルゲ事件で検挙され拘留中に病死した宮城与徳(みやぎよとく)についても詳しい。
 徳田と同じ名護出身の宮城についてもこの稿でふれたいと思っていた私にとって、渡部はまさにうってつけの人物だった。
 渡部との面談の席には、奄美大島や沖縄の初期共産党の歴史に詳しい奄美大島出身のフリージャーナリストの中田建夫も同席した。
 中田は1959(昭和34)年の「週刊文春」創刊にあたって、作家の梶山季之(かじやまとしゆき)率いる“トップ屋集団”、通称「梶山軍団」に所属し、その後「週刊新潮」記者に転じたベテランジャーナリストである。
「文春」の記者時代は、立花隆の『日本共産党の研究』の取材班にも名を連ねており、日本共産党の歴史については非常に詳しい。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記