第二話 わしは腹を切るぞ
吉川永青Nagaharu Yoshikawa
気の進まぬ戦(いくさ)というものがある。ことに此度(こたび)はそうだ。幼き日、まだ竹千代(たけちよ)と呼ばれた頃に知己を得た織田信長(おだのぶなが)殿との戦いなのだ。
信長殿と将棋を指したのは何年前になるだろう。今年で十九歳を数えたのだから、もう十年も前か。なのに。長じて松平元康(まつだいらもとやす)を名乗るようになった今、今川(いまがわ)のご隠居様・義元(よしもと)公の下で信長殿と戦う破目になってしまった。心の底から、気の進まぬ戦だ。
いや。そもそも気の進む戦というのが、あるのだろうか。
否。ない。断じて、ない。何しろ戦なのだぞ。危ないのだぞ。
考えてもみて欲しい。互いが互いを討つつもりで臨んでいるのだ。そして旧唐書の憲宗(けんそう)紀にもあるとおり、勝敗は兵家(へいか)の常と言う。
たとえば我が軍略が、諸葛孔明(しょかつこうめい)も兜(かぶと)を脱ぐほどの――あ、いや。違うな。孔明が戴(いただ)いているのは綸巾(かんきん)だ。綸巾を脱ぐほどのものだったとしても。
などと思ったが、これは兜でも綸巾でも構わないところだな。
ともあれ負ける時は負ける。捕えられたら首を刎(は)ねられる。さあ、また考えてみよう。
答。とても、恐い。
しかも。首を取られては恥だから、そのくらいなら自ら腹を切れというのが武士なのだ。腹を切れば痛い。恐い上に痛い。さらに命を落とす。
ほら。分かるだろう。誰だって分かるはずだ。気の進む戦など、ありえないのだ。
とは言え、戦えと言われたら従わざるを得ない。今夜も今川の下知を受けて戦をしたのだが、もう、嫌になるくらい辛(つら)かった。まずは夜の闇に乗じて、尾張(おわり)の知多(ちた)、大高(おおだか)城に兵糧を入れた。返す刀で織田方の丸根砦(まるねとりで)を攻めて、つい先ほど落としたばかりだ。
本当に、もう――。
「やれやれ。生きた心地がしなかったぞ」
砦の陣小屋に入って吐き出したのは、紛れもなく本音だ。然るに。
「いやいや、何を仰せにござりますか。会心の戦でしたろう。我ら三河(みかわ)武士の心意気、今川家中にも、しかと見せ付けられたものと存じます」
我が家臣、酒井正親(さかいまさちか)だ。正直なところ呆(あき)れた。この戦馬鹿め。戦は危ないと、先ほどから言って。いや、言ってはいないか。それでも頭の中で考えていたのだから、察してくれても良さそうなのに。
苦い思いで目を向ければ、酒井は意気揚々とした顔だ。酒井ばかりではない。この陣屋に入るまで、我が身を取り巻いていた家臣の全てが同じだった。何と言うのか、こう……腹が立つ。それでも当主としての受け答えというものはあって、本音を出す訳にもいかない。
「……皆の奮闘、大儀であったぞ」
「おお! お褒めのお言葉、何よりの褒美にござります。して今川の御隠居様は、この先、如何に戦を進められるのでしょうや。殿ならお聞き及びと存じまするが」
酒井の血気は未(いま)だ戦場(いくさば)のままか。三河武士の荒々しさは頼もしいが、心の中で溜息を漏らす日も多い。まったく、少しばかり落ち着いてくれ。と言うより、こちらが少し落ち着きたい。
- プロフィール
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吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。