第七話 小田城の落とし方
吉川永青Nagaharu Yoshikawa
「おお摂津(せっつ)、良う参った」
古河(こが)城本丸館の広間に参ずると、徳川家康(とくがわいえやす)公が鷹揚(おうよう)に迎えてくださった。
昨天正(てんしょう)十八年(一五九〇)七月、関白(かんぱく)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)殿下が相模(さがみ)に進軍、小田原(おだわら)の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子を討伐して天下を統一なされた。然(しか)るに今年三月、奥州で九戸政実(くのへまさざね)が叛乱を起こした。家康公はこの討伐に出陣しておられたが、此度(こたび)めでたく戦勝となり、引き上げの道中であった。
「呼び立ててすまんな。其方(そのほう)の歳では土浦(つちうら)からの旅も身に応えたろう」
「いえいえ、ほんの二日ばかりの道にござります。それに、倅(せがれ)を召し抱えていただいたご恩もございますれば」
私――摂津守(せっつのかみ)こと菅谷政貞(すげのやまささだ)は当年取って七十四の老骨である。旅は確かにひと苦労だったが、顔に浮かぶのは喜びの笑みだけであった。
「御身こそ長陣を終えられたばかりで、さぞやお疲れでしょう。左様な折、この年寄りに会いたいと仰せくだされたのですから、かえって嬉(うれ)しゅう存じまする」
「そう申してもらえると、ありがたい。さすがは音に聞こえた忠義者よな」
忠義者のひと言に、先からの笑みが少し苦いものを孕(はら)む。と、家康公も同じような面持ちになられた。
「どうやら前の主君を思い出したようだな」
「はっ。その……少し。申し訳次第もござりませぬ」
「構わん、構わん」
大らかな笑い声が、広間の中に響いた。
前の主君とは、小田氏治(おだうじはる)殿である。この御仁はかつて常陸(ひたち)の南半国を領する大名だったが、関白殿下の北条征伐――小田原の陣に参陣せず、所領を召し上げられてしまった。氏治殿は北条を盟主と仰いでいたのだから、まあ致し方ない成り行きではあろう。我が菅谷一族は、その氏治殿の臣であった。小田家とは一蓮托生(いちれんたくしょう)の身ゆえ、やはりこの折に所領を失っている。
だが、私が小田家に傾けた忠節を知り、賞してくださる人があった。関白殿下の重臣・浅野長政(あさのながまさ)殿である。浅野殿の推挙を受け、我が倅・範政(のりまさ)は徳川家に召し抱えられた。今や菅谷一族の主君は家康公なのだ。小田家のことは昔の話と、私は改めて一礼した。
「して本日のお召し、如何なるご用向きにござりましょうや」
家康公は「それよ」と身を乗り出された。
「まさに小田氏治殿について聞きとうてな」
目が丸くなった。もう氏治殿のことは思うまいと割り切った矢先、いささか決まりが悪い。
「それはまた、如何なる訳で」
「実は関白殿下より、小田殿を許すとお達しがあった」
- プロフィール
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吉川永青(よしかわ・ながはる) 1968年年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『写楽とお喜瀬』『ぜにざむらい』『新風記 日本創生録』など。